新潟で培ったベテランのかつらウィッグ職人が生み出す匠の技とその心
新潟はかつら・ウィッグ作り発祥の地
新潟市から北東約40キロにある新潟県胎内市(旧、北蒲原郡中条町)。
この胎内市に、「これまでに見たこともなかったような、かつら・ウィッグの製造と製品開発の一大拠点をここに作ろう!」と、日本の某大手かつら・ウィッグメーカーが、約13万平方メートル(約4万坪)の広大な敷地に、研究開発部門と流通部門を併設した、国内では過去に類を見ない巨大なかつら・ウィッグの生産工場を建設したのは、1983年(昭和56年)のことです。
ピーク時には約450名の従業員がこの工場で働き、毎月5,000点以上のかつら・ウィッグ製品がこの工場から全国に発送されていきました。
この工場の特徴は、かつら・ウィッグをただ製作するだけでは終わらなかった、ということです。ヘアースタイルに応じた毛植え手法や製品構造の改良、自然な風合いや、軽量化を実現した毛髪やネット素材の開発など、それまでどこのかつら・ウィッグ会社も力を入れてこなかった、独自の製品開発が積極的に進めらていきました。
この大規模なかつら・ウィッグ工場の進出と共に、新潟県胎内市は、日本国内の「かつら・ウィッグ作り発祥の地」としてその後変貌を遂げていったのです。
新潟のかつら・ウィッグ作りの原点は人毛加工処理の技術から
この大手かつら・ウィッグメーカーが、新潟県胎内市に自社工場を建設しようとしたのには、それなりの理由がありました。それは、日本が高度成長期を迎え始めた1955年(昭和30年)の当時より、この胎内市には全国でも珍しい人毛の加工処理会社があったからなのです。
人毛は切ったそのままでは絡んでしまってすぐには使えません。人毛表面のキューティクルを高圧洗浄して除去し、その後脱色してから染め直す、といった加工が必要となります。そのようにして加工された人毛は当時貨車で運ばれ、刷毛(はけ)やブラシ用として全国の紡績工場に販売されていました。
自社工場建設で胎内市に進出てきたこの大手かつら・ウィッグメーカーは、その後この人毛加工処理会社を買収し、この会社の高い人毛加工技術を余すところなく吸収していったのです。
かつら・ウィッグ職人育成の拠点と変貌した新潟県胎内市
かつら・ウィッグの製作はそのほとんどが手作業であり、手工芸品と言っても過言でありません。十分な指導を受け、豊富な経験を積まない限り、かつら・ウィッグはすぐには作れないのです。
一通り自分一人で製作ができるようになるまでには、先輩職人の指導を受けてから一年後です。しかしこの時点では「人の手を借りずになんとか自分で作れるようになった」というレベルであり、本物の髪の毛のように見えて、かつら・ウィッグだとは一見してわからないような品質の高いかつら・ウィッグを作れるようになるまでには、それから5年、10年、15年、20年と、地道に経験を積んでいかなければいけないのが、かつら・ウィッグ作りなのです。
4万坪の広大な敷地に、450名もの職人が働いていたかつら・ウィッグ工場は、1980年代当時、全国でもこの新潟県胎内市の工場だけであり、これだけ大きな規模のかつら・ウィッグ工場は、あとにも先にも、この日本で建設されることはありませんでした。
まさに新潟県胎内市は、数多くのかつら・ウィッグ職人を輩出していった、日本で唯一の場所と言えるのです。
レリエンスメディカルのかつら・ウィッグはこの道20年以上のかつら・ウィッグ職人による手作り
完全手作りのかつら・ウィッグ製作では、製作コストの大半を人件費が占めます。
新潟県胎内市に進出したこの大手かつら・ウィッグ工場は、その後も順調に稼働していましたが、工場の規模が大きくなることによって膨れ上がる人件費をなんとか抑えようと、将来の工場運営を模索し始めます。
この工場は、人件費が上がり続ける国内生産に見切りをつけ、人件費の安い海外に生産を移管することを決定します。この決定に大きく影響を受けた新潟県胎内市のこの工場は、平成22年(2010年)12月に完全閉鎖され、27年の歴史に幕を閉じることとなりました。
レリエンスメディカルのかつら・ウィッグ工房の職人は、平成22年12月に閉鎖されてしまったこの工場に長年勤めていた、この道20年以上のベテランです。「新潟で育まれたかつら・ウィッグ作りの技術とその精神を、絶やすことはしたくない!」という私の強い考えに、賛同して集まってくれた熟練のかつら・ウィッグ職人たちなのです。
現在の職人は6名だけと、非常に小さな工房ではありますが、引き続き、かつら・ウィッグ作り発祥の地であるこの新潟県胎内市で、これまでと変わることなく、今までに培ってきたかつら・ウィッグ作りの匠の技とその心で、今日もひとつひとつ丁寧に手作りをしています。